誰でも参加できるコンサート!開かれた場所で歌うことが、すこしずつ自分自身や家族、まわりの人を変えていく―福井県障がい者芸術文化活動支援センター・ふくみなーと(福井県)
まちなかでの定期開催コンサートをつづける理由
福井県障がい者芸術文化活動支援センター「ふくみなーと」(2021年9月開設)の運営を担うのは、福井県あわら市にある社会福祉法人「ハスの実の家」。「ハスの実の家」は、1980年代からコンサートなどの文化芸術活動を積極的に行なってきた。
今では、観光客も行き交う公共の施設での音楽コンサートを毎月定期的に行っている。そのオープンさが特徴で、ふらりと来た人が自由に楽しめ、一緒に歌ったり踊ったりも。また、音楽だけではなくラップやダンスなど、ジャンルもさまざまだという。
この取り組みのはじまった経緯や、変化について、具谷 裕司(ぐたに・ゆうじ)さんに話を伺った。

コンサート開催時の様子。参加者の笑顔が印象的です
「ふくみなーと」の活動では、音楽のコンサートを定期開催されているとお聞きしました。どんなコンサートを行っていますか?
具谷 私たちは福井県の最北端に位置する、あわら市を拠点にしています。芦原温泉が有名で、まちの中心にあるJR駅も「芦原温泉駅」という名称です。
この駅に隣接してステージイベントができる「アフレアホール」があります。地元の方や、観光客が自由に出入りするスペースですね。
「ふくみなーと」ではその「アフレアホール」を舞台に、毎月第2土曜日に2時間ほどコンサートを開催しています。
ステージに立つのはレギュラー参加をしている方、ゲストとして参加している方といろいろです。個人で参加する方もいれば、「ハスの実の家」のメンバーもいる。そのほかの団体からも多数参加してくれています。障害の有無、プロ、アマも問いません。

「アフレアホール」のコンサートには、声楽家をめざす特別支援学校卒業生のソプラニスタ、川本良太さんもレギュラー出演されています
参加者のみなさんはバラエティに富んでいるのですね。
具谷 「ハスの実の家」のメンバーで自作のラップを披露する方もいますよ。興味をもってくれたフルートやピアノなどの音楽家や、地元のジャズグループが参加してくれたり、障害のある人たちのご家族の方が中心になるパートがあったり、本当にいろんな方が集ってくれています。
また音楽だけでなく、ダウン症の子どもたちのダンスユニット、障害当事者の絵本作家による読み聞かせの発表会などがプログラムに入ることもあります。
そしてステージのラストには全員で3〜4曲演奏するのがお約束です。誰もが知っているような曲を選んで、それぞれ練習をしてきてもらい、参加者みんなで楽しんでいます。

「アフレアホール」にダンスユニットが出演したときの様子
コンサートを行うようになったきっかけはなんでしょうか?
具谷 私たちはもともと「ハスの実の家」としてコンサートを開催していました。「ハスの実の家」は1965年、「どんなに障害が重くても人間らしく当たり前の暮らしを」と開設されました。その後、作業所もつくったのですが、無認可のままでは将来に不安があるため、社会福祉法人の認可を取ろうと決めました。1983年のことです。
それから、利用者さん、家族会、スタッフともに、自分たちの願いを歌声にしたコンサートなどの文化芸術活動を活発に行って、周囲のみなさんに共感の輪を広げていったのです。

1985年「ハスの実の家」のみなさんによる初めてのコンサート
そして、2021年には施設敷地内に保健・文化交流センターをつくり、野外ステージやアトリエ、ギャラリーで地域の方々と交流を深めています。
その流れで「ふくみなーと」の運営にも携わるようになり、さらにたくさんの方に声をかけながら、駅の隣の「アフレア」でコンサートを開催してみようとなったのです。あわら市からの期待の声も大きかったです。
コンサートを開催するにあたり、どんなことが大変でしたか?
具谷 コンサートをはじめた当初は、ご家族から、「ステージに上げるなんて、これ以上子供らに恥をかかせないで」などの声もありました。ご家族もいろんな葛藤があったんですよね。
それでも、当時、利用者さんが取り組んでいた廃品回収の仕事をテーマにして「廃品回収の歌」(この街で)をつくり、歌ってみたんです。すると、みなさんの楽しそうなこと!
自分たちの気持ちを歌詞にして、仲間と歌う。そのいきいきとした姿が、ご家族の気持ちを動かしたのでしょう。翌年の1984年に開催した第1回目のコンサートでは、家族会の全員が一緒にステージに立って、歌ってくださいました。
また当時、ちょうど20歳になる利用者さんがいたんですね。そこで、ご両親にお話を聞かせてもらい「20年が過ぎて」という家族の歌を一緒につくりました。利用者さんだけでなく、ご家族の思いも歌えるというのも、ご家族にとって励みになったのかもしれません。
歌がみなさんの心持ちにも変化をもたらしたのですね。
具谷 そうですね。今では「歌うこと」が、利用者さんはもちろん、ご家族にとっても、ひとつの誇りになっているのではないかなと感じています。
梨園での農作業という利用者さん自身の活動から生まれた歌、モヤモヤした気持ちや溢れ出る感情を歌詞にしたラップなど、オリジナルの曲がもう80曲くらいあるんですよ。
「アフレアホール」でのコンサートは定期的に開催されていますが、まちの変化はありましたか?
具谷 「アフレアホール」がオープンしたのは、「芦原温泉駅」に北陸新幹線が乗り入れるようになった2023年のことです。その後、「ふくみなーと」のコンサート活動を月に1回ペースで行ってきました。
するとうれしいことに、一緒に歌ってくれる方、一緒に踊ってくれる方が、どんどん増えてきているのです。私たちのコンサートを眺めているだけじゃなく、「自分も一緒に歌いたい!」「一緒に踊ると楽しそう!」。そんな空気が生まれているんですよね。
しかも、その空気づくりをしてくれているのは、常連のお客さんばかりでもないのです。たまたま通りがかった地元のおじさん、おばさんもいれば、外国人の観光客もいて、初めて会った方々であるはずなのに不思議な一体感が生まれています。
この現象には「アフレアホール」のスタッフのみなさんも驚いています。
それは素敵な変化ですね。コンサートによって、障害のある方への理解も深まり、障害の有無の垣根を感じさせない雰囲気が、まちに広がりつつあるのでしょうか。
具谷 そうですね。私としては「あわらのまちの空気は、間違いなく変わった!」と肌で感じています。
たとえばスーパーマーケットで「ハスの実の家」のメンバーが買い物をする時、どうしてもレジで時間がかかってしまうのです。そんな時、私たちは待たせてしまってすみませんとつい恐縮してしまうのですが、ほかのお客さんは「大丈夫よ、私は隣のレジに行くからね」と言いながら温かく対応してくださいます。
そして、歌を通して自分の気持を表現しやすくなったのか、利用者さんが「ハスの実の家」の運営についても考え、いろいろな要望を伝えてくれるようになったのも、大きな変化です。

「ハスの実の家」の利用者さんがみんなの声をまとめた要望書

コンサートは一人ひとりが自分の願いや望みを表現する場でもあります
最後に「ふくみなーと」の今後の活動予定、展望などを教えてください。
具谷 「ふくみなーと」として「アフレアホール」でコンサートをするようになり、よりいろんな方たちとのつながりや関わりが増えてきました。そこで、これまで出演してきたみなさんと市民が一緒に参加できるコンサートをどこかの会場を借りて、開催したいと考えています。まだまだ具体的はではありませんが、いつかきっと実現させたいです。
最近、あらためて気づいたことがあります。それは障害のある方たちにとって、心地のいい空気感の場所が、とても大事だということです。
ですからそのような場所、障害のある方が「自分を表現できる場所」を、家や施設の中だけでなく、まちや地域の中につくっていきたい。
それは、いわゆる健常者と言われている私たちにとっても、必要な場所、コミュニティが生まれる場所になると思っています。
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活動の積み重ねが、ひとりを変え、だんだんとまちまで変化が広がっていく様子は、聞いていてとても感動しました。ぜひ実際のコンサートをご鑑賞してみてください。
2026年1月
取材・文:西村里美(H&Her.)

具谷 裕司(ぐたに ゆうじ)
社会福祉法人 ハスの実の家 理事長
1956年生まれ。小学校の頃は比較的おとなしく内気な少年だったように思います。勉強は嫌いで苦手でした。絵や工作もとても下手くそ。ただ体育だけはとても好きでした。中学校ではそんな僕でしたが幸いにもたくさんの友人がいたように思います。今思うとあまり優秀な友人たちではなかった。でも、きっとそれがよかったんだと思っています。気がつくと先生や大人にはあまり歓迎されないだろう子たちの側にいました。ですからそんな子たちに連れられて悪いこともいっぱい経験しました。どれだけ怒らても止められませんでした。みんな大好きでした。
ある日、大嫌いな美術の授業で画用紙を真っ黒に塗って、ど真ん中に山吹色の大っきな「うんこの絵」を描きました。翌日学校に行くとその絵が美術室の壁に貼り出されていて、怒鳴られるのを覚悟していた僕に先生は「すごくいい、面白い」とみんなの前で褒めました。不思議な先生もいるんだなぁと…困りました。でも何故かそれから僕は絵を描くのが好きになりました。音楽の時間も楽しみでした。高校を卒業するとすぐに就職しましたが、友人たちと毎晩、車を暴走させました。
そんなある時、僕は障害のある女性と、出会いました。
僕の生きる方向性が定まったような気がします。
子供の頃からどれ一つも無駄ではなかった、自分。
1982年、26歳の夏、僕は無認可ハスの実の家の玄関に立っていました。